(資料)



  弓月国: 3−6世紀・キリスト教国、 キルギスの北のオビ川源流あたり (現在のカザフスタン東部)、ヤマトゥという町、 天山山脈にはハン・テングリ山 → ”天狗”、 スワイマン山 ・・・ アブラハムがイサクを犠牲にささげようとした伝承 → 諏訪の””ミサクチ”(ミ・イサク・チ)祭”にそのまま伝承


  資治通鑑(しじつがん)唐紀・199巻(唐紀15、648−655年) ・公元651年(辛亥)      邦訳

  651年7月
  秋,七月,西突厥沙鉢羅可汗寇庭州,攻陷金嶺城及蒲類縣,殺略數千人。詔左武候大將軍梁建方、右驍衞大將軍契?何力爲弓月道行軍總管,右驍衞將軍高コ逸、右武候將軍薛孤呉仁爲副,發秦、成、岐、雍府兵三萬人及回?五萬騎以討之。

  
秋、七月。西突厥の沙鉢羅可汗が庭州へ来寇し、金嶺城と蒲類県を攻め落とし、数千人を殺略した。左武候大将軍梁建方と右驍衛大将軍契?何力を弓月道・行軍総管として、右驍衛将軍高徳逸と右武候将軍薛孤呉仁を副官とし、秦、成、岐、雍の府兵三万人及び回?五万騎を徴発してこれを討伐するよう詔が降りた。



  新唐書・列伝35・阿史那忠(611-675)伝

  (西突厥は582年に突厥から分離。 突厥の阿史那氏(阿史那賀魯)が唐に亡命、太宗のとき入朝。 続く 高宗の時、西域遠征に用いられ、諸国が服従。唐の最大領域となった。)
  668年 阿史那忠は青海道・行軍総管となって 弓月、吐蕃(チベット)の防備に当たる。後に、西域道・行軍総管になった。(ex. 長岑道・行軍総管 ・・・ 鉄勒、契丹の防備)

  新唐書・本紀第三・高宗      邦訳

  651年7月
  七月丁未、阿史那賀魯が庭州を寇し、左武衛大将軍の梁建方と右驍衛大将軍の契?何力弓月道・行軍総管となってこれを討伐した。
  663年12月
  十二月庚子、明年を改めて麟徳元年とし、降京師・雍州諸県死罪以下。壬寅、安西都護の高賢が行軍総管となり、弓月を討伐した。
  665年の春
  閏月癸酉、日食があった。
  この春、疏勒・弓月・吐蕃が于?を攻め、西州都督の崔智弁と左武衛将軍の曹継叔がこれを救援した。



  好太王の碑文 (414年10月、1880年発見、高句麗の第19代の王)   

  百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破・百殘・加羅・新羅以為臣民
  ・・・ そもそも新羅百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。

  (内容)
  ●399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出むいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出た。
  ●400年、大王は新羅の願いに応じて5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅の王都を占領していた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
  ●404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

  (教科書) 百済や新羅はもともと高句麗に服属していて、高句麗に朝貢していた。しかし、日本が391年に海を渡ってきて、百済や新羅を攻撃し服属させてしまった。そ こで396年、好太王自ら水軍を率いて百済を討伐し、服属を誓わせた。・・・・しかし、百済はその誓いを破って、日本と結び、高句麗は日本と戦うことに なった。

  ・・・ ただし、当時の倭に百残・新羅を支配下に置けるほどの国力は無かったと予想される( ← 大王の敵役である倭は凶悪で、しかも強大でなければならない)






  後漢書(5世紀)・巻85・東夷列伝  ・・・・ 高句麗、三韓、倭 : 原文、  邦訳(三国志・魏書・東夷伝・辰韓)(3世紀)、  梁書・新羅伝(7世紀・627年)


  ?有三?:一曰??、二曰辰?、三曰弁辰。

  辰韓

  辰?,耆老自言秦之亡人避苦役,??国,??割?界地与之。其名国?邦,弓?弧,??寇,行酒?行?,相呼?徒,有似秦?(秦語),故或名之?秦?(秦韓)。有城策屋室。?小?邑,各有渠?,大者名臣智,次有??,次有樊?,次有?奚,次有邑借。土地肥美,宜五谷。知蚕桑,作?布。乘?牛?。嫁娶以礼。行者?路。国出 ?,?、倭、??并从市之。凡??易,皆以???。俗喜歌舞、?酒、鼓瑟。兒生欲令其?扁,皆押之以石。

  ・・・ 辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓(後の百済)は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。

 or  辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。言語は秦人に類似しているので、あるいはこれを秦韓とも言う。城柵を立て


  秦の亡人と自称、苦役を避け( ・・・ 秦の始皇帝の苦役から亡命)、 馬韓は東の地を割いて与え、辰韓人と名づけた。そのため 馬韓人が行政の長に立つ。 ・・・ 秦語(・・・辰韓の民の話す言語は秦の人に似ていた)
  養蚕を知り、絹布を織り、牛馬に乗り、・・・ 歌舞、飲酒を人々は喜び、琴を弾く。

  (以下、魏書・東夷伝(3世紀)・これがオリジナル より) 土地は肥え、五穀及稲作。 を産し、製鉄を行い、中国の貨幣のように鉄を使う。 幼児には石で頭を圧迫し、偏った頭の形とする。 死者には大鳥の羽をもって 天に行くよう弔う。 男女倭に近く、また文身(=刺青; 縄文人、東国のエミシ・琉求国(7−8世紀)、アイヌ(17世紀)、と続く風習)す。 行者に道を譲る。
  (梁書・新羅伝(627年)より)  百済(馬韓)などと言葉が通じない。(=「無文字」=漢字が無い) 木簡に文字を刻んで百済と通じる。



  倭:

  建武中元二年,倭奴国奉?朝?,使人自称大夫,倭国之?南界也。光武?以印?。安帝永初元年,倭国王?升等献生口百六十人,愿??。桓、??,倭国大乱,更相攻伐,?年无主。有一女子各曰卑弥呼,年?不嫁,事鬼神道,能以妖惑?,于是共立?王。侍婢千人,少有?者,唯有男子一人??食,?辞?。居??室、楼?城?,皆持兵守?。法俗?峻。

自女王国?度海千余里,至拘奴国,?皆倭?,而不属女王。自女王国南四千余里,至?儒国,人?三四尺。自?儒?南行船一年,至裸国、K?国,使?所?,?于此矣。会稽海外有??人,分?二十余国。又有夷洲及?洲。?言秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海,求蓬莱神仙不得,徐福畏?不敢?,遂止此洲,世世相承,有数万家。人民?至会稽市。会稽?治?人有入海行遭?,流移至?洲者。所在??,不可往来

 ・・・ 建武中元二年(57年、後漢の光武帝の時代)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す(奉貢朝賀す)。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以ってす。
 安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口(奴隷)百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間(桓帝、霊帝の時代(146〜189年))、倭国大いに乱れ、更相攻伐し歴年主なし。


 or  倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝、朝鮮を滅ぼしてより使訳漢に通ずる者三十許国なり。
 国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居る。楽浪郡徼はその国を去る万二千里、その西北界拘邪韓国を去ること七千余里。その地、大較会稽の東冶の東にあり、朱崖・タン耳と相近し。故にその法俗多く同じ。(略)
 国には女子多く、大人は皆四、五妻あり、その余もあるいは両、あるいは三。
(略)
 ・・・ 建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
 安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。
 桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。年長じて嫁せず、鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑はす。ここにおいて共立して王と為す。
(略)




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